雲游拳房BLOG

螳螂門を中心に、武術全般について取り扱います。当BLOGは螳螂門を代表するものではありません。 文責はすべて片桐個人に帰します。無断転載・無許可の引用を禁じます。

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Face to

本当の傳承の中には余計な言葉は無い。
そもそも技藝において、いたずらに言葉を玩ぶべきではない。
あくなき反復を通じ明確な意識の構成を志し、
門の思想を実現しうる身体・動きの完成を目指さなければいけない。
もし言葉があるとすれば、思想を端的に示す字訣か、
体感と感性を顕す言葉、上達に導くための一言だけだ。
そしてそれらさえも絶対では無い。
そもそも感覚は本来個人のものだ。
導くための言葉は師徒の限られた密接な関係においてのみ意味をなす。
言葉は結局十人十色を求めることになる。
しかも言語は日々発展変化する。
同じ言葉であっても、内涵されるものは土地・時代によって違う。
中国武術を学ぶ、外国人としての我々は余計に気を付けなければいけない。
発生した土地から離れ、無理に言葉の感性を理解しようとすれば、
出口のない迷路に入り込むことになる。
それ故、安易な定義付けを示すべきではない。
緻密すぎる理論は実技から乖離する。
古拳譜は尊重されるべきだが、
どの門派においても理論の殆どが古典文献からの引用であることを知るべきだ。
動き、身体、思想がはじめにあることを忘れてはいけない。

また、
武術を求めるのに、手品師である必要はない。
手品師になれるだけの工夫と修練が必要なだけだ。
不思議や神秘を求めるべきではない。
不思議や神秘とまで感じさせる動き、
それを示せるだけの修練が求められているだけだ。
人を惑わすことを望めば、気づかないうちに自らも惑わしていくことになる。
たとえ修行の上、磨かれていく感覚が不可思議を示しても、
それはあくまでも副産物でしかない。
真っ直ぐに武術に向き合い、
真っ当に積み上げていくことだ。
もちろん向き合う姿は人それぞれでかまわない。
ただ、どうしても武術が示している道を目指せないなら、
武術以外のものを探すべきだ。
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この記事のコメント

色々な考えや想いを混ぜました。
だから下のでもいいですね。
face to face
set one's face to
face up to
2006-07-27 Thu 12:03 | URL | 片桐陽 #u6N1DTGI[ 編集]

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